名選手列伝

佐藤玖光 1974−1998
19**.*.*生 左投・*打 **県出身 **高−太平洋−広島


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球界初の打撃投手は球界一長寿だった

■目ざとい人なら「佐藤玖光」という選手がずいぶんと長い間カープに在籍していることに気がついたかと思います。しかし昭和50年以降、彼が一軍あるいは二軍のマウンドに立った姿を誰も見たことはないと思います。彼のポジションはいわゆる「打撃投手(バッティングピッチャー)」。試合前、打者の調整のために何球も何球も放り続けねばならない単調で大変な仕事。その仕事をなんと彼は昭和50年(1975)から平成10年(1998)まで黙々とこなし続けました。在籍26年、なんとそのうち25年間が打撃投手という「現役」生活。決して記録には残りませんが、大野 豊投手(1977−1998、在籍22年)に匹敵、いや、仕事の内容を考えればそれ以上に「驚異的」な長命選手だったと言えるでしょう。

■佐藤玖光投手は昭和49年にトレードで太平洋(現西武)から広島入りし、次の年(昭和50年)には球界初の打撃投手として契約。たとえ一軍に上がることがなくても、打撃投手契約でなければ、二軍での登板が巡ってくるかもしれません。それを捨ててまでの打撃投手契約。一般的に、プロ野球に入るに時、わざわざ「打撃投手(バッティングピッチャー)」を目指して入る人はまずいないと思います。勝手な想像ですが、かなりの逡巡があったのではないでしょうか?そしてまた、その野球人生がその後25年間も続くとは誰も想像できなかった事と思います。

■佐藤投手は左投げです。かなり前になりますが、佐藤投手が「仮想新浦」として山本浩二、衣笠祥雄、水谷実雄ら主軸打者に投げているというのを何かの記事で読んだことがあります(新浦投手は一時期カープの天敵でした)。投手本来の役目はもちろん打者を抑える事。ところが打撃投手はこの投手が本来持っている本性を捨てて、打ちやすい球(たま)を放り続けねばなりません。しかし、あまりに簡単な球だと「仮想」にはなりませんし、逆にあまりに厳しい球ばかりでも打者の練習にはならないでしょう。この境界ぎりぎりの部分で勝負しなければならないところに打撃投手の難しさがあると思います。ただ漫然と放っているだけでは、バッティングマシンと変わりません。近年、バッティングマシンがずいぶんと進歩したということですが、いくら進歩したといっても、それはあくまで機械が投げる球。スピードは出るかもしれませんが、生きた球にはならないはずです。

■佐藤投手に続いて、長島吉邦投手も打撃投手となった(はず)のですが、佐藤投手のほうがより長命でした。この佐藤投手の功績に対して連盟表彰が行われましたが、これはもっともなことだと思います。強かった(過去形ではいけませんが)カープを支えた選手として、この名選手列伝に佐藤投手を加えることで、彼の功績を讃えたいと思います。

【背番号の変遷】39(1974)−52(1975−1977)−65(1978−1987)−91(1988−1998)
【現在】広島市中区薬研堀で「とりきん佐藤」(平成11年4月開店)を経営。カレー鍋が絶品とのことです。


 

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