広島カープの歌(勝て勝てカープ)と巨人の歌(闘魂こめて)は本当に同じ作者?


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富沢佐一・中国新聞社編「カープ30年」(約20年前の出版された本)におもしろい記事が載っていました。それは、「広島カープの歌(勝て勝てカープ)と巨人の歌(闘魂こめて)の作詞者が同じである」というショッキングな内容です。

■事の発端は、今を遡ること約20年、カープ初優勝のころのこと。好調広島東洋カープにあおられて数々の「応援歌」レコードが発売されました。リバイバルあり新曲ありと、バラエティーに富んでいたことだけは覚えています(当時小学4年生でした)。

■その中で最も売れたはずのEP盤(であったと記憶しています)に収録されていた、「広島カープの歌(勝て勝てカープ)」の作詞者、池田真琴さんがその記事の主人公です(ちなみにもう一曲の方は「それいけカープ」です)。

■「池田真琴氏の連絡先が判明しておりませんので、ご存じの方は弊社までお知らせください」との文面を目にした記者である私(おそらく富沢佐一氏)が記者魂をくすぐられ、約1ヶ月かけて池田真琴氏の所在を探しまわることとなりました。

■記者氏は、カープ球団、レコード会社、作曲者、作曲者(当時既に物故)の息子などに当たりますが全く所在不明。広島市および近郊の電話帳にも該当者無し。あれこれと探しているうちに、当時の雑誌(「野球界」昭和28年5月号)の中に書かれていた文章の中に「池田真琴 東京都」という記載を見つけます。

■上京の折に「通信総合博物館」に立ち寄り、昭和28年頃の電話帳をくってみても該当なし。調査は振り出しに戻ったかに思われましたが、さすが地元ローカル紙中国新聞の記者。自社の資料部に保管されていた当時の新聞のマイクロフィルムを片っ端から読み返します。そして、ついについに、「入選作決まる」(昭和28年3月21日付)という記事にたどり着きます。そこには、「266人の応募者の中から、東京都港区○○、▲▲出版社内 池田真琴の作品が入選」と書かれていました(住所、出版社名が明かされていますが秘します)。

■ここまでわかれば問題解決、住所か出版社に連絡をとって本人の所在を突き止めるだけ。造作も無いことに思われたものの、同住所に同人は住んでおらず、会社も今はなし。せっかくここまでたどり着いていながら万策つきたかに思われましたが、同名の出版社が世田谷区に今も存在することが判明。わらにもすがる思いで電話したところ、これが大当たりだったのです。

■池田真琴氏こと池田○○郎さん(本名が明かされていますが秘します)は、昭和53年(1978年)に▲▲出版社を定年退職し東京都江東区に健在でありました。本人に電話インタビューして初めて明らかになった衝撃の事実というのが、椿 三平の名でご本人が巨人軍の歌である「闘魂こめて」の歌詞も書いていたという事実です。

■記者氏は、単に池田真琴氏の所在を突き止めたかっただけであり、池田真琴=椿 三平という事実が明らかになるなんて予想だにしなかったものと推察されます。もっとも、池田さんはこれら2曲の他に「東京都中央区歌」をはじめ、1等入選した歌が4、50曲もあるということで、結局は「作詞投稿マニア」とも言えるのではないでしょうか?カープの歌を作った時も、広島のことやカープのことなどこれっぽっちも知らないままの応募だったそうです。それでもなおかつ1等を射止め、さらにはカープ快進撃に伴ってリバイバルされ、そして今日まで歌い継がれている事を考えると、歌詞としてはよくできていたということになります。

■印税のことを記者氏が告げると、「でも、当時賞金をもらってますからねェ。別に、またいただこうとは思ってないですが…」と笑われたそうです(当時池田さん71歳、ご存命なら91歳になられています)。カープ初優勝に向けて、このレコードは応援歌としてはずいぶんと売れたはずなんですが、本当に印税を受け取られていないのでしょうか?ああ、もったいない、もったいない…。

※文中の「今」とは、「カープ30年」が出版された昭和55年前後のことです


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