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全6676試合の足跡

カープが誕生した1950(昭和25年)から20世紀最後の年である2000(平成12年)までの51シーズンの全6676試合における貯金・借金をグラフにしてみました。
通算で253の負け越しなので残念ながらグラフは借金側にシフトしたままなのですが、それは黙認ということでお許しください。とはいえ、こうやってグラフにしてみると20世紀のカープの戦いの足跡が一目瞭然です。よりわかりやすくするために、グラフの傾きにあわせて補助直線を引いてみると、4本の直線を引くことができました。
まず第1期(忍耐期:1試合目〜約1000試合目)。グラフが一直線に急降下していることがわかります(つまり負け越しの連続)。このグラフの傾きこそ、創生期のカープの苦闘の歴史を示しているものと言えます(涙)。
それが第2期(黎明期:約1000試合目〜約3300試合目)になると、勾配の角度がやや緩やかになります。そのきっかけになった事は何なのでしょうか?この時期にカープに起こった最大の出来事は1957(昭和32年)夏の市民球場完成であるといえるでしょう。それまでの広島での試合は常にデーゲーム。いかに熱狂的なファンのお膝元とはいえ、皆が皆、平日の真っ昼間から野球見物に興じることはできません。その広島の、しかも市内のど真ん中にナイター球場が完成したことによって、1956(昭和31年)では50万人弱だった観客動員数が1958(昭和33年)には約85万人と約35万人も増加。おかげで、火の車だった財政事情もずいぶんと好転し、経営基盤も安定することになりました。また、立派な球場の完成は選手の自信にもなりますし、自由競争時代だった当時、新人選手の勧誘にもずいぶんと有利に働いたことと思われます。さらに、観客動員数の増加は補強のための軍資金の増加に直結しますから、自由競争時代ということもあり、よりよい選手の獲得も可能となります。これらの相乗効果により戦力が強化されたカープは、第1期よりも「負けなくなった」ことから、グラフの傾きも緩やかとなったと考えられます。
それからおよそ18年後、地道に戦力強化を図ってきたカープの努力が一気に花開いたのが1975(昭和50年)であることは周知の事実です。その初優勝から1991(平成3年)の優勝までが第3期、すなわちカープの第一期黄金時代といえるでしょう。それまで右肩下がりであったグラフが右肩上がりに変化。それまでの借金の約半分を一気に返済してしまいました。
山本浩二、衣笠祥雄と、黄金期を支えた2人が去った後も、しばらくは右肩上がりが続きますが、永久に続くかと思われた黄金時代にも終焉が訪れます。20世紀最後の最後の優勝の後、グラフはほぼ水平になってしまいます(第4期:停滞期)。この第4期のカープを如実に表しているのが1996(平成8年)。シゲヲ監督をして、「メイクミラクル」と言わしめたあの年です。オールスター直前まで猛烈な勢いで突っ走っていたカープが、巨人との北海道シリーズでの連敗をきっかけに迷走。ぶっちぎりの優勝だったはずが、終わってみれば3位とこれ以上ない残念な結果に終わった年です。衣笠&山本引退後、数年続いた投高打低を払拭すべく、第1次山本政権がとりくんだ攻撃力の強化が実った途端の投壊。一転打高投低に陥ってしまったカープは、その打撃陣と投手陣のちぐはぐな関係を修正することができずに20世紀を終えてしまいました。
21世紀最初のシーズンを久々の5割で終えた広島カープ。セ・リーグ始まって以来、最悪の悪法によりAクラス入りはなりませんでしたが、懸案だった投手陣の再編も実現しそうですし、第1期黄金時代のような快進撃を期待したいと思います。


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